わたしのADPKD体験談 第12回 北海道在住Oさん

病気を受け入れて乗り越えたことは私にとっての自信。失ったことではなく、プラスのことを考えれば、自ずと進む道も見えてきます。

病気を受け入れて乗り越えたことは私にとっての自信。
失ったことではなく、プラスのことを考えれば、自ずと進む道も見えてきます。

就職活動目前の大学3年生の時にADPKD(常染色体優性多発性嚢胞腎)を発見されたOさん。同級生たちとは違う道を選ばざるを得ない状況に苦しめられた時期もありましたが、今ではその体験をプラスに変え、子どもの頃からの夢だったロボット研究ができる企業への就職活動に励む毎日です。

就職活動目前の大学3年生の時にADPKD(常染色体優性多発性嚢胞腎)を発見されたOさん。同級生たちとは違う道を選ばざるを得ない状況に苦しめられた時期もありましたが、今ではその体験をプラスに変え、子どもの頃からの夢だったロボット研究ができる企業への就職活動に励む毎日です。

就職活動目前の大切な時期にADPKD/多発性嚢胞腎と診断された焦り 就職活動目前の大切な時期にADPKD/多発性嚢胞腎と診断された焦り

その日、大学から帰宅したOさんは突然の腹痛に襲われました。思い当たる原因もなく、これまでに感じたことのない痛みでしたが、とりあえず安静にしていれば良くなると考え、1人暮らしのアパートで早々に床に就いたと言います。ところが、翌朝になっても痛みは治まらず、むしろひどくなっていました。日中は何とか耐えたものの、夜には貧血の症状も現れたため、病院の夜間外来を受診しました。当直の医師からは尿管結石と診断されましたが、翌日にはさらに痛みが増し、嘔吐の症状にも襲われたため、ついに救急車で搬送されたそうです。
「診断は腎出血で、精密検査の結果、腎臓に嚢胞があることとADPKD(常染色体優性多発性嚢胞腎)であることを医師から伝えられました。その時、小学生の頃に病院を受診した際、腎臓に嚢胞が見つかり、母親から『年を取ったら何か困ることがあるかもしれないけれど、今は気にしなくていいよ』と聞かされたことを思い出したのです。すっかり忘れていましたが、非常に戸惑いました」とOさんは振り返ります。
腎出血の痛みは非常に激しく、緊急入院を余儀なくされました。当時、都心部の大学に通う3年生で、就職活動を始める大切な時期だったことも大きな精神的負担になったと言います。「病院には両親もすぐに駆け付けてくれました。その時父親からは、『地元に住んでいたら十分な治療が受けられず腎臓摘出になっていたかもしれない。都会で1人暮らしをしていてラッキーだったな』と、軽い調子で言われました。私を励ましてくれていたのでしょうね。今考えるとありがたいのですが、当時の私はそれどころではないほど落ち込んでいました」。

10日間の入院を終えた後も体調はなかなか回復せず、通院が必要であったため、Oさんは大学3年生の残り半年間、療養に専念することを決意します。友人たちから休んでいる間の講義について聞いたり、ノートを借りたりするなどして授業の遅れを取り戻そうとした時期もありました。しかし、就職活動の真っただ中の友人たちに、自分のせいで少しでも負担をかけることはしたくないとも考えたそうです。
その後、当然就職活動を一時休止したOさんは、同級生たちとは違う道を選ばざるを得ない状況に苦しめられました。「大学を休むことを決めてからは、意地でも友人たちと顔を合わさないようにしていました。我ながら非常につらい時期でしたね」。
しかし、腎出血から半年後、OさんはADPKD/多発性嚢胞腎の治療薬と出合うことになり、止まっていた時計が動き出します。無理矢理にでも物事をプラスに考えるように心掛けたことで、以前よりポジティブ思考に生まれ変わりました。当たり前に日々を過ごしていた時期よりも、物事をじっくりと考える習慣が身に付いたと自分自身を分析しています。

ロボット研究のできる企業への就職をめざして ロボット研究のできる企業への就職をめざして

現在Oさんは3度目の大学3年生の日々を送っています。治療を開始したはじめの一年は “体慣らし”の意味で、授業をあまり詰め込まずにゆとりを持ったスケジュールを組んだそうです。今年、決意も新たに本格的な学生生活をスタートさせました。「昨年は学校と家、そして病院を行き来していただけでした。アルバイトもセーブしていたので、以前のような生活を取り戻すことができるのだろうかという不安がありました。しかし、今年はアルバイトも再開し、いよいよ就職活動も本格始動しています」。
アルバイトはスポーツイベントやライブの設営といった体を使う仕事ですが、主治医からの制限は特になく、また体調に影響もないそうです。
食生活においては、気を配る毎日です。大学入学と同時に親元を離れて1人暮らしを始めたOさんは、不摂生がたたって体重が増加してしまったそうです。炭水化物が大好きで、丼物やパスタなどを食べ過ぎていた自覚があると言います。「主治医からも体重を落とすようにと指導されたので、夜は炭水化物を抜くようにしています。料理はあまり得意ではないため、スーパーでカット野菜や下味のついた鶏肉などを買って、簡単ですがサラダとソテーなどを作ることが多いですね。朝は市販の野菜ジュースを必ず飲むようにしています」。

今年の夏には、企業のインターンシップにも参加しました。工学部で学ぶOさんは、子どもの頃からの夢であるロボット研究ができる企業への就職をめざし、今後は東京や大阪など全国に足を運ぶ予定です。「ようやくスタート地点に戻ってくることができました。同級生の友人たちから出遅れたことは事実で、今年就職活動をしている3年生より年をとってしまっています。しかし、病気を受け入れて乗り越えたことは、私にとっての自信になっています。病気になって失ったことを考えるのではなく、プラスのことを考えれば、自ずと進む道も見えてくるものです」。
懸命に壁を乗り越えたOさんは今、夢に向かって誰よりも力強く進んでいます。

ADPKD/多発性嚢胞腎と診断された患者さんへのメッセージ

遺伝性であることや、将来透析のリスクが高まることなど、ADPKD/多発性嚢胞腎には不安がつきものです。しかし、いつ来るか分からない将来の不安を考え過ぎると、せっかくの“今”が立ち行かなくなってしまいます。病気になったマイナス面ばかりを気にして自分は不幸だとふさぎ込むのは、非常にもったいないことです。私は今、そう思えるようになりました。ADPKD/多発性嚢胞腎など笑い話にするぐらいの勢いで、目の前にあることを頑張る――それが、長い付き合いになる病気とのちょうど良い向き合い方ではないでしょうか。

遺伝性であることや、将来透析のリスクが高まることなど、ADPKD/多発性嚢胞腎には不安がつきものです。しかし、いつ来るか分からない将来の不安を考え過ぎると、せっかくの“今”が立ち行かなくなってしまいます。病気になったマイナス面ばかりを気にして自分は不幸だとふさぎ込むのは、非常にもったいないことです。私は今、そう思えるようになりました。ADPKD/多発性嚢胞腎など笑い話にするぐらいの勢いで、目の前にあることを頑張る――それが、長い付き合いになる病気とのちょうど良い向き合い方ではないでしょうか。

2016年10月作成
SS1610543